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私(マネージャー)が生まれ育ち、そしてサロンもある寺尾、別所という地域。
どんな土地にも歴史があります。
ここでは、寺尾・鶴見にまつわる話をご紹介したいと思います。
なお、当ページは私が聞いた伝聞、過去に読んだ資料などを基に書いておりますので、不明瞭・正確ではないところもあるかと思います。
あくまでも、「地元をご紹介したい」というポリシーだけで記しておりますので、ご了承下さい。
詳細を説明したサイトがある場合、そちらへリンクしてあります。
また、先に文章を書いているため、写真などは時期を見て(何せ、梅雨時ですから…(^_^;)撮影して掲載したいと思います。
当ページ上の外部へのリンクは、すべて別ウインドウで開きます。
「寺尾」という地名、私が知っている限りでは鶴見と、同じ神奈川県内の綾瀬市、川越市など、関東の多数の地域に点在しています。
そのうちのいくつかは、後述します「寺尾城」の当主「諏訪馬之助」の話と関連して、彼に関連する土地に必ず「寺尾」と名の付く地名があるという、謎に包まれた歴史もあるようです。(城跡ほっつき歩きというサイトの「寺尾城」のページ参照)
鶴見にある「寺尾」の由来ですが、鶴見区と神奈川区の境にある「松蔭寺(Yahoo!地図へリンク)」を中心に、「東寺尾」・「西寺尾」・「北寺尾」が地名として定められた、と小学校の授業で教わった記憶があります。
地図で確認すると、確かに鶴見区東寺尾と神奈川区西寺尾の境界部分にあることがわかります。
「北寺尾」は現在、松蔭寺とは隣接しておりませんが、後から「馬場」という地名が定められてしまったため、と憶測できます。
ちなみに、当サロンの本店「ヘアーサロンマエダ」の所在地は、現在は「北寺尾1丁目」ですが、確か昭和40年代後半に行われた住居表示が実施されるまでは「馬場町」でした。現在の「北寺尾1丁目」エリアは、旧地番はおそらく「馬場」だったのではないかと思います。
「南寺尾」がないのは、よく理由がわかっていないようです。。
この話は、逆に現在の地名(正式名ではないものも含みます)からお話ししてみたいと思います。
まず、鶴見駅から臨港バスの菊名駅行きに乗ると、「馬場町」バス停の次が「殿山」、そして「馬場谷」と続きます。(臨港バスホームページの「路線図」をリンクしておきます。図の一番下に書かれています。)
「馬場」だとか「”殿”山」だとか、何となくそれっぽい名前がついていますが、寺尾城があったのはこの「殿山」バス停から南側の高台を上った一帯だったそうです。
寺尾城の築城から没落などまで、詳しいことは鶴見区のホームページ「鶴見の歴史・なぞに包まれた中世の寺尾城」に詳しく書かれていますのでそちらをお読みいただくとして、現在ではすっかり住宅街になった跡地の一角に、「寺尾城址」の石碑が建っているのが唯一の名残・証拠となっています。
また、周辺地域にはいくつか「空堀」の跡が残っており、上寺尾小学校南側には空堀の保存と展示をかねて「殿山公園」が整備されているほか、同じように臨港バスの「馬場町」バス停がある交差点から細い道路を入っていき、ほどなく左側に分岐し下り坂になっているところにも、以前堀跡があって、現在は児童公園として整備されています。こちらは、残念ながら堀跡は残っていないようです。
私が子供の頃には、各堀跡や旧跡地には江戸時代の御触書のような立て看板でその場所の説明が書かれていたのですが、現在では残念ながらほとんど見られなくなってしまいました。
初代の当主「諏訪右馬之助」は馬術が下手で、その練習場として馬場を整備したのが、現在の臨港バス「馬場谷」バス停の一帯だったそうです。
あるいは、馬術の名手だったのでさらなる研鑽のために馬場を整備した、という説もあるようです。
ですので、「馬場」という地名はもちろんそれが由来です。
鶴見寺尾城については、明確に文書として残されている資料があまりにも少なく、今でも謎の城として「鶴見歴史の会」あるいは地域の史学家によって、研究と解明が今でも進められています。
鶴見にお住まいの方でも、この周辺に住んでいないと耳慣れない地名だと思いますが、現在の北寺尾1〜4丁目のほとんどの地域は「別所自治会」という自治会に所属しています。
バス停でも、臨港バスに「別所」、国道一号線を走る横浜市営バスに「北寺尾別所」というものがあります。
「別所」もインターネットで検索してみると、全国各地で見られる地名・名称ですが、鶴見の「別所」は、諏訪右馬之助の別荘があったところだと、最近お客様から伺いました。
また、鎌倉時代に当時の御家人の別荘があったから「別所」という地名が付けられた、という説、大企業の役員さんの別荘地だったから「別所」の名が付いた、という説もあるようです。
ちょうど距離的にも、不得手だった馬術の練習を兼ねて移動するにはちょうどいい距離だったのではないでしょうか。
おそらく全国各地の「別所」も、同じような由来のところがあるのではないかと思います。
(後日追記)
「別所」という地名については、いわゆる“部落”だったところ、という説もあるようですが、鶴見の別所については別荘地であった、という説が有力のようです。
(追記終了)
余談ですが、鶴見といえば最近は石原裕次郎ゆかりの地ということになりつつあります(?)が、映画「陽のあたる坂道」のロケが行われたお宅が数年前まで、臨港バス「別所」バス停のすぐ裏手、まさに東南向きの「陽のあたる」斜面上のところにありました。(2006年3月11日にテレビ東京系「出没!アド街ック天国」でも紹介されました!)
私が高校の頃は、一般住宅をそのまま改造したようなレストランのような形態で営業しており(お店の名前は「陽のあたる坂道」でした)、一度だけ先輩に連れられてお茶を飲みに行ったことがありました。
残念ながら現在は跡形もなくなってしまいましたが、そのレストランのスタッフが横浜市南区”別所”というところでまたレストランを営業されているらしいです。
国道1号線といえば、東海道筋の大動脈として整備された幹線道路ですが、私たち地元の人間は通称として「二国」と呼ぶことが多いです。
ですので、私も子供の頃から国道1号線といえば「二国」だと思っていたのですが、大学生の時に友達と話しているとみんな「一国」「一国」と呼んでいて、正直、話が混乱することもありました(笑)。
確かに、「国道1号線」の略称ならば「一国」で正解だと思いますが、地元民がなぜ「二国」と呼ぶかというと、「二国」は「第二京浜国道」の略称だからです。
現在のように全国的に国道が整備される以前の戦前、というよりはもう日中戦争が始まっていた頃だと思いますが、京浜(東京〜横浜)間の幹線道路整備が急務とされた時に、現在の国道1号線が整備されました。
それ以前に整備されていたのが、現在の国道15号線である「第一京浜国道」で、東海道線を挟んで反対側に2番目の「第二京浜国道」となった訳です。
現在でも、国道15号線には「第一京浜」、国道1号線には「第二京浜」と書かれた道路標示を見ることができます。
(第一京浜国道を「国道」、第二京浜国道を「新国道」と呼んだこともあったそうです。)
また、戦後新たに京浜間のバイパスとして整備された自動車専用道路が、「第三京浜」と命名されました。もちろん、こちらも扱いは国道のようです(神奈川県道路公社ではなく、東日本道路株式会社(旧・日本道路公団)の管轄)。
「第二京浜国道」を整備する際、当時は陸続きだった現在の東寺尾北台〜東寺尾6丁目・北寺尾1丁目の間を切り崩し、もともとその尾根付近にあった道を整備する際に、「メガネ橋」(正式には「響橋」)が作られました。
昭和16年竣工、と現在でも橋脚に記載されています。
実は、幻で終わってしまった昭和16年の東京オリンピックのマラソンコースの折り返し地点として計画されていたのが、出来たばかりの「メガネ橋」の下だったそうです。
メガネ橋と「二国」については、サトウマコトさん(鶴見高校ご出身だそうで、私の大先輩になります!)の書かれた「第二京浜国道と鶴見めがね橋」(Amazon.co.jpへのリンク)という本に詳しく記述されています。
ちなみに、この本の出版社「230クラブ」は、その名の通り(鶴見区の郵便番号が”230”です)鶴見やその周辺地域に関する本が多数出版されています。
興味を持たれた方は、是非ご一読下さい。
鶴見にはいろんな地名がありますが、その由来について興味を持ち少々調べてみました。
なかなかインターネットで調べてみても出てきませんので、各種書籍などを参考に、ここにまとめてみたいと思います。
区内全町名を網羅しているとは思いますが、順不同なのはご容赦下さい。
| 鶴見(区・町名) 鶴見中央 |
太古の時代、当時のお偉方がこの地を通過した際に鶴がたくさん見えたことから命名された、という説、朝鮮語で「鶴」のことを「チュルミー」ということから転じたという説(昔から鶴見には朝鮮系の方が多くお住まいだったようです)、鎌倉時代に源頼朝がここで鶴を放った説、などかなり多くの説があります。 「横浜の町名」によれば、地名研究で「ツル」は水路や河川の周辺の地、という意味を持ち、「ミ」は「まわり・めぐり」を意味する「廻」であり、出入り変曲した地名を指すことから、ちょうど鶴見川が大きく湾曲している部分であることから鶴見と呼ばれるようになったのではないか、とまとめられています。 鶴見中央は昭和55年の住居表示施行時に鶴見町から新設、文字通り区役所・駅・警察署等、鶴見の中心的な施設が多く存在することから命名されたのではないかと思います。 |
| 北寺尾 東寺尾 馬場 |
上記に書きましたので省略致します。 |
| 東寺尾北台 東寺尾中台 東寺尾東台 |
昭和47年の住居表示施行時に、東寺尾町(一部は鶴見町)から新設されました。 しかし「東台小学校」が昭和4年に鶴見尋常高等小学校(古くは、現在の花月園前駅そばにあった「生見尾(うみお)小学校」がルーツです)から名前が変わって「東台」の名がついたことから、古くから地域では呼ばれていた地名のようです。 |
| 諏訪坂 | 上記2に書いた「寺尾城」の当主、諏訪氏の館があった場所とされ、そこから命名されたようです。館の跡地は現在の「諏訪坂公園」付近だということです。 |
| 獅子ヶ谷 | 諸説あり、 ○「シシ」には「縮む」という意味があり、「狭まった谷の地形」という意味 ○師岡村の熊野権現(現在の師岡熊野神社)の領地の1つで、獅子舞を受け持った地域だから ○鹿がたくさんいたので、「鹿ヶ谷」と呼ばれていたのが転じた などが由来だろうと言われています。 |
| 上の宮 | 出処は明確にはわからないのですが、昭和49年の住居表示施行時に、1丁目にある八幡神社の名から由来して名付けられたようです。 |
| 駒岡 | 駒(=馬)の形をした地形、とも言われていますが、「コマ」には「入り組んだ地形」という意味があり、小さな谷戸(丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形…Yahoo!辞書より)の入り組んだ地形だったことから名付けられたようです。 |
| 豊岡 | 鶴見区が成立する前の鶴見村の戸長、黒川荘三氏がその頃多くあった“字”を整理統合した際に命名されました。 鶴見村でも比較的高台で農業に適した土地であり、横浜開港後に多く入ってきた西洋野菜を栽培し、横浜あるいは東京に出荷していた土地で、「豊かな岡」というのが由来だそうです。 |
| 佃野 | 「佃(つくだ)」とは「作り田」の意味で、荘園領主が直接経営する田があったところから命名された、という説があります。 一方、同じ鶴見村でも豊岡とは反対に、当時“暴れ川”だった鶴見川に面して農業に適さなかった土地で、その反面佃煮を売る店が多く出来た(おそらくレアールつくの(佃野商店街)の原型だろうと思います)ことから名付けられた、という説もあるようです。 昭和54年の住居表示施行時に、元宮と鶴見町の一部から地元の通称を採用して命名されました。 |
| 上末吉 下末吉 |
古くからそう呼ばれた地名のようですが、明確なその由来がわかりません。 1500年代に発行された「小田原衆所領役帳」にもその地名の記述はあったようです。 鋭意調査を続けます。 |
| 梶山 | クワ科の落葉高木「カジノキ」がたくさんあったことから命名されたようです。 |
| 三ツ池公園 | 元々は上末吉町、下末吉町、北寺尾町にまたがる公園だったようですが、昭和44年の住居表示施行に伴い、地元からの要望で公園だけを単独の地名として設定されたようです。 もちろん、3つの池がある公園だから、ということですね。 |
| 寺谷 | 「新編武蔵風土記稿」の「東寺尾村」の項に、松蔭寺の谷戸を意味する地名として「寺谷」の記述があるようです。 しかし松蔭寺からはちょっと遠いですよね・・・。 |
| 岸谷 | 「キシヤ」とは「山側の谷戸」あるいは「山手の谷」という意味を持つようで、それが地元の通称・字として採用されていたようです。 昭和42年の住居表示施行時に命名されました。 |
| 朝日町 | 昭和16年に潮田町・平安町の一部から新設、西側を流れていた旭運河の名を取って命名されたようです。 |
| 安善町 | 大正5年頃、浅野総一郎がこの地を埋め立てた際にその運営会社(東京湾埋立会社 →現在の東亜建設工業)に出資した、安田財閥の創設者「安田善次郎」の「安」と「善」を取って町名としたようです。 |
| 市場上町 市場下町 市場西中町 市場東中町 市場富士見町 市場大和町 |
「市場」は文字通り、旧東海道沿いあるいはその周辺地域に立っていた市場から、町名につけられたようです。 海が近かったことと、交通の便が良かったことから現在の市場西中町にある熊野神社を中心に、市場ができたということのようです。 昭和43年の住居表示施行時に、地元の通称である各名称をつけて現在の6町になりました。 |
| 潮田町 | その名の通りで「海水の入ってくる田」という意味から命名されたものと思います。 私が以前見た江戸時代初期の古地図では、潮田地域が掲載されていませんでした。 ですのでずっと「ここは埋め立て地(あるいは干拓地)なのではないか?」で、そういう意味からも命名されたのではないかと思っていましたが、古地図は掲載が曖昧な点と、鎌倉時代〜江戸時代初期までは現在東京湾に面している低地はまだ完全に陸になりきってなりきっていなかったことから、少々誤解していたようです。 「潮田神社」は、旧潮田村(旧潮田町)に点在していた小さな神社を取りまとめて1つにしたものだ、という話を聞いたことがあります。だからあれだけ、規模が大きいのでしょうね。 |
| 江ヶ崎町 | 「江ヶ崎」とは「川に面したところ」という意味があるそうで、それから命名されたものと思います。 |
| 扇島 | 川崎市川崎区扇町の対岸にあることから命名されました。 「扇」の文字は、先述した浅野総一郎の家紋が末広扇だったことからそれにちなみ、「扇町」の町名にされたということです。 |
| 小野町 | 江戸時代末期から明治初期にかけ、この地を埋め立てた小野家(小野高義・鱗之助親子)の名前にちなみ作られた「小野新田」が名前の由来だそうです。 |
| 寛政町 | 江戸時代、宝暦14(1764)年から開発された荒井新田の一部で、寛政元(1789)年から年貢を取り立てられたことから寛政耕地と呼ばれたことが、地名の由来になるようです。 |
| 栄町通 | ここも明確な由来がわからなかったのですが、旧潮田町の頃から商業が盛んに行われていたようで、また地名研究でも「栄」は土地が栄えるように願って付けられることが多い、とのことなので、そういうことから命名された地名だと思います。 |
| 汐入町 | 昭和16年に潮田町から新設されたそうですが、「汐入」は「池や沼に海水の通うこと」という意味があるそうで、おそらく潮田地域にあった田の灌漑用水池に海水が入り込むような、そんな地形から名付けられたのではないでしょうか。 昭和16年にはすでに地先は埋め立てられていますが、それ以前は海岸だったことを考えるとそのように想像できます。 |
| 下野谷町 | 由来は旧地名の字名から取ったようですが、その由来は不明です。 「谷」という文字が入りますが、この地域はずっと平坦ですので余計に謎めいた感じがします。 |
| 末広町 | こちらも「扇島(扇町)」と同じく、浅野総一郎の家紋から由来しているようです。 |
| 本町通 仲通 |
いずれも旧潮田町から新設され、「本町通」は潮田町の本町の通りだから、仲通はそれに対して仲通りだから、と命名されたようです。 それぞれに「本町通り」「仲通り」という道路が走っています。 |
| 生麦 | その名の通り生麦(天然麦?)が生い茂っていた土地で、江戸時代に二代将軍徳川秀忠がこの地を通ろうとした時、麦があまりにも多くて通れずに難儀していたところを当時の村名主がとっさにそれらを刈り取らせ、無事に通ることができたことを将軍が感謝したのか、この地を生麦と名乗るように、と言ったというのが地名の由来だそうです。 |
| 浜町 | もともとは人工的に作られた運河だったところでした。 そこをまた改めて、京浜電気鉄道(現在の京急)が埋め立てた際に、川崎側を「京町」、鶴見側を「浜町」と、“京浜”の文字から命名して付けられたのが由来だそうです。 |
| 平安町 | 古くは潮田町ではなく鶴見町だった土地で、平安という地名の由来は不明なんだそうですが、説として川崎の「京町」に呼応して付けられたのでは、と伝えられています。 私自身は、そこから連想して平安京のように整った街並みだったことから、それに倣って付けたのではないかと考えています。 |
| 弁天町 | 町内あるいは付近に弁財天に因むようなところはなく、江戸時代の新田開発で「弁天下新田」と呼ばれていたことが地名の由来になるようです。 |
| 向井町 | こちらも明確な由来は不明ですが、鶴見川を挟んで「鶴見の向かい側」ということが由来になるようです。 |
| 元宮 | 市場東中町にある熊野神社が、元々はこの地にあったのですが鶴見川の改修工事等により遷座したことで、元々のお宮の場所、ということから字名として由来しているようです。 |
| 矢向 | 古く、高僧がこの地に夜中明るい場所を見つけて行ってみると、そこには光り輝く白衣の観音を見つけ、それを山王権現(現・日枝神社)に奉ったことからこの地を「夜光村」と称えて地名にしたのが大本の由来で、その後新田義貞が矢口の渡しの戦いで放った矢が川崎の塚越を飛び越えて、夜光村の老松に刺さり、それを矢止めの松と呼ぶようになり地蔵を祀りました。 それから「夜光」を「矢向」と呼ぶようになったようです。 |
| 尻手 | 古くからの通称だったようですが、その明確な由来は不明で地名研究に寄れば「シッテ」は「ある地域の後方にある土地」という意味を持つそうです。 その“ある土地”がどこを指すのかはよくわかっていないようですが・・・。 |
参考文献:
「獅子ヶ谷」 横浜市立獅子ヶ谷小学校 15周年記念副読本
「横浜の町名」 平成3年3月 横浜市市民局発行
「横浜の町名」 平成8年12月 横浜市市民局総務部住居表示課発行
「鶴見ところどころ」 中嶋昭・著 230クラブ新聞社・刊
「つるみ このまち このひと」 いいまち鶴見運動推進委員会発行
2006年4月3日 補正追記
2007年2月9日 補正追記
2009年5月25日 補正追記
2010年7月8日 補正追記